南島の歌人 長谷草夢の世界【1】 川涯 利雄
熊毛文学 種子島に拠りガリを切る
終戦と同時に帰島
私は鹿児島の県北、一万羽のツルが飛来する出水市で短歌とエッセー『華』という季刊の文芸雑誌を発行している。現在十五号(2002年10月現在では48号まで発行)を発行したばかりの若い雑誌であるが、二つの大事な課題を抱えている。一つは、鹿児島をキーステーションに、われらの発言(作品)を全国へ発信すること。もう一つは、地元鹿児島歌壇に鍬を入れ、固くなった土壌を耕して風通しのよいものにし、独自の大輪の花を育てること。その一環として、その土壌に埋もれた人々を掘り起こし、すぐれた人物や作品を顕彰することもまたわれわれの課題である。
その一番手にわれわれは長谷草夢(実名 鮫島宗美)という人物を取り上げた。長谷草夢は鹿児島市から南下すること百キロ余、鉄砲伝来の島、種子島の西之表市にあって、昭和二十五年から『熊毛文学』を編集しつづけた歌人である。
古家に新窓つけぬ新窓にゆたかに垂るる月桃の房
夕驟雨(ゆうさだち)あとしめりたる裏縁や
しみじみと世がうれしかりけり
うつそみのいのちかぐはしかく生きてわかば
オゾンを胸ふかく吸ふ
妄と執を悲しみたまふみほとけの大き御目かつ
日照らす
人間が「人間」を考へそめし日に世の悲しみは
始まりぬらし
長谷草夢は太平洋戦争時代、友人に懇願されてしばらく宮崎の学校で教鞭を執ったが、終戦と同時に種子島に帰り、再び島から出ることもなく種子島の文化を掘り起こし続けた人物である。「かえりなむいざ。田園まさに蕪れむとす」という思いで帰ったのである。
島に帰ってまもなく、昭和二十五年に『熊毛文学』という雑誌を興した長谷草夢は自らガリを切り、妻のスガさんに謄写版で刷らせ、家族で製本して『熊毛文学』を出し続けた。
活気あふれる歌会
われわれは種子島・屋久島を包括して呼ぶ時、熊毛という呼称を用いる。長谷草夢の編集する『熊毛文学』には、実際海を隔てる屋久島からも歌の投稿があり、西之表市だけでなく、種子島の中種子町・南種子町からは泊まりがけで『熊毛文学』の歌会に出てくる人も少なくなかったのである。
私が長谷草夢に初めて会ったのは昭和三十九年四月の夜であった。現鹿児島大学教授・民俗学者、下野敏見氏(昭和三十七年第一回柳田国男賞受賞)は当時、私の赴任した種子島高等学校の教諭であったが、氏が長谷草夢に私を紹介すべくその歌会に連れていった。長谷草夢が南日本文化賞を受賞したり『熊毛文学』が百号記念大会を機に盛大にマスコミに取り上げられた直後のことで、歌会には活気が溢れていた。
夕方六時半を過ぎるころ、二合瓶と肴を持った歌人たちが集まってきた。女性歌人も少なくない。長谷草夢の古い屋敷の大広間二つがぎっしりと埋まったころ、七時に歌会は始まった。すでに郵送されていた歌がプリントされている。その歌の朗唱・批評という形で歌会は始まった。甘い批評には厳しい批評がかぶさり、厳しい批評には救いの言葉が付加される。八時になって持参の焼酎の封が切られると、いよいよ談論風発、表現とは何か、短歌は何を歌うべきものかなど、批評と批評が相打ち、相からまりあうと長谷草夢がさりげなく言葉を入れて進行を整理する。
過労から倒れる
私はこのやりとりを聞きながら、李白の「春夜宴桃李之園序」や三国時代末の竹林の七賢といわれた人々の清談もまたこんなに楽しいものだったに違いないと思うのである。
『熊毛文学』が百八号に達して長谷草夢は倒れた。過労が蒿(こう)じたためだったといっていいだろう。尋常な努力、忍耐力ではなかったのである。昭和五十七年、七十歳で死去。その間『熊毛文学』から多くの歌人が育ち、種子島の文化の土壌は大いに開墾されたのである。